妻との旧日光街道の散策は9月26日に完結した。
次はどこの街道を攻めようか夫婦で相談していたのだが、新コロ感染拡大のために実行は先延ばしになっていた。そして、Goto以降に蔓延が拡大してしまったので、遠くに遠征することはできなくなった。そこで近場からスタートすることになった。
日光例幣使街道を歩くことにしたのである。日光例幣使街道は江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道だ。(Wikipedia)
中山道の倉賀野宿(高崎市)から太田宿、栃木宿、鹿沼宿などを経由し、今市宿で日光街道と合流する。
私たちは今市からスタートした。 日光街道との分岐点には追分地蔵尊がある。分岐を右に行くと例幣使街道である。
今市を出てすぐ、例幣使街道は狭い。車道と歩道が区分されていない。仕方なくがないので車道の端を注意して進む。
室瀬の一里塚の標識は街道の両脇にある。
地震坂は昭和24年の今市地震の際、地滑りが起こり杉並木が移動してしまった坂である。
板橋宿の手前は杉並木保護のため車両通行止めになっている。
板橋宿は杉並木が途切れている。
板橋宿を過ぎ板橋の一里塚付近から再び杉並木となる。板橋一里塚は荒れ果てていた。
ここからは街道脇の遊歩道?を進む。杉の枝が落ちていて歩きづらい。トレッキングシューズを履いて行って正解だった。
文挟宿郷倉を見て、杉並木が途切れると文挟宿だ。
鹿沼と大谷の分岐点が本日のゴールである。